2015年2月18日水曜日

表現する。

大人になっていく過程で失っていく表現の自由。
純度が高い、自然の木や海などを見て うわー奇麗だなーって嬉しくなって身体がぴょんぴょんはねる。走りまわる。その姿に踊りの根源を僕は見ます。
僕の目指す踊りは、意外とストイックなとこもあり、ぴょんぴょんはねる子供のような感性のもと踊れるようになるにはまだまだ僕は早いと勝手に思っています。
舞踏家 大野一雄は僕の中ではピカソでも成し得なかった、自身の再生を成し遂げた人だと思っています。
彼から非常に僕は影響を受けているのですが、やはり思うんです。
僕ら大人は子供に戻ることはできません。なぜなら記憶があるからです。
理性があるとかの以前に記憶という前提がある限り、必ず規制がかかります。
その時点で子供のときのように・・・などできないと僕は思っています。
記憶のない前提のない無意識的な在り方など、記憶をためてきた大人である自分を一回死なせない限り、難しいのではと思います。
大人の僕らが一回死ぬためには、戻ることよりも逆に進むしかないのでは。
その進み方は、子供の自由さの逆にある具体的な不自由さではないのか。
大野さんの踊りを見ていて、そう思います。
なので、そこまで生きれるか分からないけれど70歳以降になる自分の踊りがどうなるのか個人的に非常に楽しみなのです。
身体は思うように動かない。骨折をしたときのように、日々日常から身体を意識せざるえない状況に追い込まれる身体になったときの身体の表現。
そこには記憶や前提を超えた“今”の踊りがまた再生するのではないだろうかと思っています。
だからこそ、今の時期20代から30代とかは一番微妙です。
なぜなら動こうと思えば自由に動けるし、身につけた技もそれなりに磨きが入って魅せれるようになり、そのような技術にも依存するし、その表面的要素で評価を受けたりする。
その時期に大分深い落とし穴があるような気がしています。
ただ、そこで僕は何故先ほどストイックな姿勢と言ったかというと、よく僕の同世代で舞踏とかコンテとか言葉上でしかない 何かそれっぽい言葉を使い 精神を表現をするとかいってウズクマってウーとかいって ああこれが俺の身体表現である とか言って踊ってる?のを見ると身体全細胞が拒絶反応をおこします。
いや、、、まてまて、まずしっかり具体的に踊れるようになってから言ってくれよって本気でおもうんです。
まず踊りで魅せれることが出来ない人が、いきなり芸術表現とかよくわからないですが、そんなとこに入り込んで自身の身体で出来る可能な限りの身体性を見ずに甘えきってるのを見ると本気で怒りをおぼえます。
いや、森でやってたり家でやってれば僕も何も文句はありません。ただお金をとって人が見にきて、その状況でどうどうと甘え浸ってるダンサーをみると虫酸がはしるということです。
僕は、そうなりたくない。
今のこの身体、無駄に動いてしまう動けてしまう身体に対してコンプレックスがあるからこそ、逆に出来ることを全部してしまいたいというのが今の僕の考えです。
何故なら、無駄に動けてしまうのも今の僕でしかできないことだからです。
今しかできないことを重ね生きていった先に、どうしようもなく身体が思うように動かない時代にはいり、そこの現実にぶつかったときの踊りのほうが厚みは絶対に違うと思っています。
だから、僕はこの20代でできる踊りの全てに挑戦していきたいと思っています。
そして生きてければ30代・40代・50代・60代・70代・80代と進んでいき、世界に1つしかない自身の身体を読みほぐしていきたいと思っています。
僕が自分に許せないのは、表現者の特有の逃げです。
それはビジネスも芸術といわれることも、全てに潜む特有の逃げと甘え。
全部、お前次第なんだよと言い聞かしています。
比較してしまう?自信がない?大分余裕のあるその言葉の裏には自身との向合いの浅さが伺われます。
俺はそんな自分にだけは絶対に負けない。
絶対に 今 を生き続ける。

photo by 大洞 博靖













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