2018年5月3日木曜日

ダンスが大好き


踊りを追求し始めてから約20年。

ダンスが好きすぎて、やばい。

なんだか自分でも少し異常な感覚を感じている。

ダンスって、いったいなんだ。

身体表現。

音楽に身を委ねる行為。

言葉では表現できない領域を身体で表す行為。

その身体という、圧倒的ハードな要素。

ソフトは当然、心。

身体というハード。
心というソフト。
そのハードとソフトを繋ぐのは、なんだ。

身体と心。

そもそも、魚は目が真横にあるため自分の身体を認識しないという。

自分の身体が見えない。
見えるのは水中。
海だったら、海中のみが見える。
川だったら、川中のみが見える。

歩いていて救われた要素、美しい風景。

美しい自然の風景を観ながら歩くと、なにも考えずに歩けた。
きづけば、到達地点に着く。

ことのなりゆき。

風景に身をまかせていると、それが感じれた。

けれど、不思議と自然ではない風景に囲まれると「情報」が多すぎて辛かった。
これは、人の差こそあれど少なからずとも自分は「都心」を歩いているより「自然」を歩いているほうがきもち良かった。

魚は、水中でなにを考えているんだろう。

美しい海の中や川の中や湖の中の風景。
自分だったら何も考えずに、スイーっと泳ぐだろうなー。

魚は踊るんだろうか。
優雅に泳ぐ姿を観るとき、僕は踊っているように見えた。

動物は基本的に動作全てが美しい。
野生動物になってくると、すべての動作が機敏で合理的。
それでいて、美しい。

宿となった藤井悠矢氏のカフェ 滋賀の永源寺の山中。
タカを観た。

タカの飛行は、圧倒的な美だった。

空を泳ぐ、鳥。

人間にとって、歩むこと。

歩みという動作。
その一歩こそ野生動物に例えるなら、舞にも観える生活動作と成り得るのではないか。
なぜなら、僕ら人間も立派な動物だ。

僕らは、動物なんだ。
ロボットではない。

魚や鳥や虫、木々も含めた自然すべてが美しい。
その美に対して、なぜだろう。
人間であることで既に汚れている感覚になるのは。

けど、事実として俺は自然の一部である「動物」であることは間違いないはずだ。

おれは、ロボットダンスをしているけれど身体に血は流れている。
昨日、コンクリの山に爪先を突っ込んで血だらけになった親指を観て思う。(帰って来てから怪我するとか、、ばかすぎる。ともあれ外出しましたら緊張感は大切ですな。)

俺には、血が流れているし、この身体は有機的な自然要素で構築されている。
身体という肉体。
この肉体は、自然だ。

筋肉という大地。
血は川に例えれる。
汗は、雨か。
呼吸は、風か。
この身体におきていることは自然に例えれること沢山あるのではないかなーと、鎌倉から滋賀までの徒歩道中で感じました。

この自然という身体を舞うこと。

その舞に取り憑かれて、改めて思う事。

この舞を通して、僕は人と世のため貢献していきたい。

貢献というと、、、なんだろう、奉仕みたいな感じになってしまうのだけど。
けど、自分にとって踊りは世における奉仕であることは間違いないはずだろうと感じます。

奉り仕えること、それは僕にとっては「踊り」です。

世の中がAI化に進む中、この人工知能化時代にこそ必要とされる身体表現が存在するはずだ。

現代風潮を否定するわけではない、むしろ新技術を表現に良き関係で取り組むことだって楽しいと思う。
ドローンならびホログラフィック、VRにだって様々な可能性がある。
映像表現に身を結ぶ自分にとって新しい技術は常に関心がある。

ただ、、、んー、、、

舞台って改めて凄いと思うんですね。
すなわち、ライブ。

刹那なる表現の空間を共有する。
もう二度と同じものは一生、生では観れない事実。

ただ、この刹那を共有できる媒体方法。

それは生の舞台である。

生ライブを共有する方法で、舞台以外そんざいしない。
当り前な事実なのだけど、この当り前なことに興味が薄れているのも事実と感じています。

僕らは、身体を持っている限り、現実世界で必ず「会えます」。

その会う機会は、人様々ですが。

僕の場合は、舞台で必ず出逢えます。

なぜなら仕事が「人前で踊ること」だからです。

その意味で、やはり御縁って凄いなーって思うんですね。


そして人間は今日まで沢山の「イベント」を展開してきたと思います。

その「イベント」がネット上で錯乱する現代において、
やはり「ライブ」という「イベント」は、かなり面白いですよね。

パソコン画面上で見るライブよりも、生の舞台で体感するライブのほうが体験としては数百倍も違う。

映像ならび写真における身体表現追求と共に
今回の野々宮神社拝殿(舞殿)におけます奉納舞公演をもって
「舞台」への追求心が

爆発しております。

面白すぎる。

やはり生ライブで踊りを共有すると、風が吹く。

野々宮神社 拝殿というステージは、森に囲まれた美しい舞台だった。

夕日という光、舞台における照明ともリンクし、悠くんの演奏が流れる。
風の音が木々の枝が揺れる音を通して聞こえてくる。
自然環境の中心に置かれた木造の美しい舞台 拝殿。

神社の拝殿ならび舞殿は、世界稀な圧倒的に美しい歴史ある舞台であることを深く認識しました。

もちろん商業ホールでの舞台も追求していきたい。
照明ならび音響の環境が超絶整っている空間でのストイックなダンス公演も創造したい。
そして、同時に自然を舞台とする神社の拝殿ならび舞殿での作品追求にも引き続き取り組んでいく。


どんどん掘り下げていこうと思う。

踊りの深み。

つきるところ、普遍。

身体という共有物。

誰しもが所有する身体。

この身体を通しての表現。

踊り。

やべー、、、、


とりあえず、造縁ダンサーならび神主ダンサーの可能性を展開させるか。
自然との大セッション。

とりあえず、ドローン×OBA×大自然 寝覚の床 作品事例 今月中には共有できるように、いたします。


一舞一生
小畑 OBA 大左衛門









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