2018年9月29日土曜日

岡本 太郎さん

岡本 太郎 「今日の芸術」を読んで人生がひっくり返るぐらいの衝撃を受けたのを今も強く覚えている。
それから川崎 岡本太郎美術館や青山のご自宅でもある記念館、大阪万博公園から鎌倉 明月院にある座ることを拒否する椅子まで全国に広がる岡本 太郎さんの作品という名の軌跡を感じてきた。

芸術は、爆発だ。

このコトバ以上に芸術の本質を捉えたコピーは存在するのだろうか。

爆発は即ち衝動と捉える。

人間の本能的な衝動が爆発し表現した結果、芸術が生まれる。

まったく、その通りだと思う。

結局、極めて純粋な衝動 ワクワクが爆発しないで圧倒的な平静心で至る仙人級アーティストも存在するだろう。

ただ、仙人は山で一人すごす。

ただ、しかし、さらに思うんだ。

南方熊楠の粘菌スケッチをアートと呼ばす、なんと呼ぶのだろう。

あの粘菌スケッチこそ、まさに爆発的な集中能力であり衝動そのものだとも思う。

衝動 ワクワク が 爆発する。

その瞬間、その刹那。

生まれる表現が、芸術。

生きることそのものが芸術であるならば、今日という一日でワクワクが爆発する瞬間 - 刹那があるだろうか。

ない日もあるかもしれない、毎日わくわくしている余裕そのものが労働環境によって無かったり人それぞれだけれど。

僕は「今」に生きていたいと思う。

常瞬間瞬間、この一歩から一生をかける想いで生きる。

One Step One Life

瞬間に命を懸け、開ききれ。

その瞬間その刹那こそ、我踏み出す此の一歩。

初期衝動(ワクワク)をもって

一歩一歩を大切に

心は不動でアレ。


One Step One Life
OBA





2018年9月25日火曜日

Darkness King

[ Darth Bacon ]


use : Colored Pencil / POSCA Gold

BigRespect
Ralph McQuarrie
Francis Bacon

2018年9月18日火曜日

カミナリ - イチ -


わたくしという現象は、仮定された有機交流電燈の一つの青い照明です。
(あらゆる透明な幽霊の複合体。)
風景やみんなと一緒に せわしくせわしく明滅しながら
いかにもたしかに ともりつづける
因果交流電燈のひとつの青い照明です。
(ひかりはたもち その電燈は失われ)
- 宮沢賢治 春と修羅 序


前回のブログでは宮沢賢治の心象スケッチ内にあります「有機交流電燈」を『身体』と仮定し「青い照明」は『人魂すなわちソウル』と仮定しディグってみました。
これはあくまでOBA仮定であって何も根拠はありません。
ただ、読んでいる方の共鳴線が響いたなら僕の勝手な仮定は少しでも意味があったと感じます。

ともかく、宮沢賢治の春と修羅 序 がマジでヤバすぎILL。
僕は今日まで宮沢賢治の詩から常にインスピレーションと感動を受けているイチ読者。
告別とアメニモマケズを暗記し、身体表現としての「声」なり「絵」で表現を追求し常に詩から学びを得ているイチダンサー。

愛読書である宮沢賢治詩集を近日、読み直した時。

ボウトウ初っぱなにして、あらためてブッとばされましたのが春と修羅 序です。

この序章、、、真剣に読んだら、なんだか凄いこと全部書いてある、、と思ってしまうのは僕だけだろうか。。

宮沢賢治「告別」もそうだった。
「アーティスト」にとって大切な心得の「全て」が、告別にはツヅられていると感じた。
初期衝動(ワクワク)を失ったアーティストに対する戒め(イマシメ)に近い言葉の数々は結局つきるところ「愛」なのだと詩中にある「ふたたび」の文字裏に僕は、そう感じた。
告別の詩を知らない人からすれば、何言ってんだって感じだと思いますが。
しかしながら表現に関わるメンズには告別の暗記は超オススメです。

ともかく、春と修羅 序にも同じような衝撃を改めて受けた。

そこで唐突ではあるが、春と修羅 序を自分なりの仮定をもってディグる試みをシリーズ「カミナリ」として展開していきたいと思う。

宮沢賢治 春と修羅 序 を自分なりに問いを点てては自分なりにアンサーし線で繋げていく。
「点」を「線」で繋げた結果、面白い「面」を造り上げていきたい。(BIG RESPECT TENSENMEN TETSU-G)

春と修羅 序が自分にとっても皆にとってもミヂカになれたら最高だなと。
なんなら自分の目標は、このシリーズを書き終わるころには春と修羅 序を完全暗記し朗読することです。(告別より長いから10分ぐらいかかっちゃうかもしれないけれど。)


次回のカミナリシリーズでは、~因果交流電燈~から展開します。

因果交流電燈の仮定要素としましては、
電燈は、引き続き「身体」。
因果交流は、「過去.現在.未来すなわち御縁」。

これらを仮定とし、ディグっていきたいと思います。

では。

one step , one life
OBA

2018年9月17日月曜日

カミナリ - 序 -


わたくしという現象は、仮定された有機交流電燈の一つの青い照明です。
(あらゆる透明な幽霊の複合体。)

(ひかりはたもち その電燈は失われ)

- 宮沢賢治 春と修羅 序

この詩を改め読みなおした時、身震いする想いだった。
人間は当然のように有機質な身体と心(三位一体では次ぐに霊)で成り立っている。
現代社会におけるAI志向で問われる人間の尊厳は人間の身体にあるとアンサーできる。
僕らの身体は動物です。と言い切ることができる。ダーウィン的自然科学が世に一般とされているのならナオの事。
僕らヒトはもともとサルの進化形らしいのだ。

ともあれ、この身体こそ有機質であることは事実だ。

有機交流。
ふむ、、人間は電流というか周波数レベルの波の結果でしかないよなーと鎌倉から島根と鎌倉から滋賀までの道中を歩んでいて、なぜか、ずっとそう思ってしまうことが多々ありました。

人間という身体から発する熱が事実存在するように、人間は少なからずとも熱を発生しているエネルギー体であることは間違いない。今年の夏は沢山汗をかいた。
エネルギーというのは唯物論的には本来ナシな感じなのではないだろうかと今ふと思った。
なぜなら、目に見えない現象だから。
物質主義業界上ではエネルギーも一つの質量になりえなければ存在価値に値しない。
現代では結果、目に見えないものも物質化し商売している。
電波を買っている事実がそうだ。

基礎に還って、人間は有機質な熱を発するエネルギー体である。
エネルギーは交流を意味するとも考える。
なぜならエネルギー交流こそが、コミュニケーション。
人間の欲求要素は情報欲が最も強いと、どこかで聞いた。

交流しえるエネルギーを持ち合わせた有機質な物質 - 身体。

電燈は何を意味しているのだろう。

交流に次ぐ電燈のあとに一つの青い照明ですと続く背景には、電燈は全体として捉えることを必要とする。

一つの交流する全体 = 身体。
身体に灯る青い照明 = ソウル。

その青い照明がソウル = 人魂と感じてしまうのは勝手がすぎるかもしれない。
(しかし事実、日本のオバケ屋敷の人魂は基本青白だ。)

青い照明の次ぐ (光はたもち、電燈は失われ)

ソウルはたもち、身体は失われ。

死は終りを意味するのではない、始まりを意味する。

そして、始まりは終りを意味する。


光はたもちソウルは繋がれていく。



春と修羅 序で宮沢賢治が、そう語っているように僕は今日2018年9月17日に強く心で感じた。

one step one life 

OBA