2018年10月10日水曜日

課題


自己反省をしていた。

自分自身への課題を問うた先に、何故か我が国レペゼンJAPANの課題に辿り着いた。


自分は一体、なにやってんだろう。

踊りを追求し、生きている。

身体表現者というか、やはり自分はダンサーなのだと感じる。

この一歩から、舞うように生きる。


「 全ての〜労働を〜舞踊の範囲に高めよ 」 
- 宮沢賢治


キース•ジャレットが語っていた「音楽から音楽は生まれない。それは赤ん坊から赤ん坊は生まれないのと同じ。」という言葉の意味していること。

それは、生活から音楽が生まれるとのことだった。

生きる営みから、表現は生まれる。

生きる営み抜きにして文化は生まれない。


ダンスと向き合ってきて数十年。

約20年前、鎌倉駅地下通路の路上で踊っていた。
ショーウィンドウに微かに写る自分の姿を見ながら練習した。
僕の場合は「路上 - STREET - 」から、踊りのステージが始まった。

その時代にはストリートダンサー内でも「 スタジオダンサー 」という存在がいて、路上 - ストリートで踊らずスタジオで踊っている非本質的ストリートダンサーを小馬鹿にもしていた。(けど数年後、本場ニューヨークに留学したときに路上で踊りを「練習」している人なんて一人も居なくて唖然としたけれど。)

ともかく当時のダンス初心者である自分としては即刻にヤバくなりたいだけ。
スタジオだろうが路上であろうが踊り狂った。

ストリートで練習やセッションをするところから、稼ぐことにも興味を抱いた。

約10年前、バスキングメッカ オーストラリア メルボルンに仲間達と滞在して有料キャンプ場に無断無金で一ヶ月テントを張って(結果、バレて芝刈りをやらされる。)、路上に繰り出しては結構稼いだ。

稼いだ金で、そのままReoとインドに渡った。
Reo Matsumoto、S.E.Pというセッションチームで共にオーストラリアで熱いバスキングを共にした同志、仲間。

彼のビートボックスに対する熱意は凄くて、タブラ屋さんのヤベー若手演奏者とジャムセッションしまくっていた。
なぜか当時世界一周の旅をしていた弟 小畑 仁とバラナシで再会した。
仁はラッパーだったにも関わらずフォークギターを片手に旅をしていた音楽にイカレタ実弟。
旅仲間2人の熱い日々に対して、僕は完全にクールダウンだった。
全然、自分の表現であるダンスにワクワクしない。。。
てか踊りって生きることじゃん。と思ってしまった。
それまで踊りを「追求」することに全ての「ワクワク」が存在していた。
なのに、そのワクワクを踊りに感じなくなってしまった。
踊りは特別のものじゃない。
誰のものでもない。
踊りは生きること。
人に魅せる為に踊ってきたことが非本質的であるように感じた。

踊りを稼ぐ螺旋から降ろそう。
今から8年前、当時24歳。
ネパール カラパタール。
稼いだ金もホボ尽きた。
ヒマラヤ山脈のフモトまで往復1週間、超特急で歩いた。
ゴール地点だったベースキャンプ場は恐ろしく寒かった。
調子こいて薄着だった自分は夜凍えていたけれど、どうしても星空が観たくて極寒の外に毛布を巻いて出た。
たまたま新月だった夜空には雲一つも無く、目線の高さまで星がウズまっていた。
今までの人生で、あそこまでヤバい星空は今日までまだ観ていない。
生きることで踊ることは成立しているんだと感極まり圧倒的パノラマビューの星空にむかって「生きる」と叫んだ。


それから二年半、まったく踊らなくなった。

身体も変わった。
まったくHITが打てなくなってる。
キレもない。
なぜなら二年半完全にデスクワークすなわち設計士として働いていた。

そんな状態で久々に踊ったのが、ジャストデブー2012だった。

久々に大音量で音楽聞くと、アガった。
身体が勝手に動く、踊る。
むしろ、踊りを練習していた頃より鮮明に踊れる。
身体以上にココロが踊っていることを強く感じた。

音楽が音楽からは生まれないように、
踊りも、踊りからは生まれなかった。

しかし、熱が入った。

やっぱダンス、楽しい。。。

今から6年前だった。

それから今日まで。
ダンスへの初期衝動(ワクワク)は完全復活し、様々な稽古を積んだ。
鎌倉から島根、滋賀まで本番舞台へ向けて、一本歯と地下足袋で歩いた。
下駄という道具はじめ、日本人には特有の身体感覚が存在していることを強く直感し歩き体感した。
徒歩をもち先人の身体感覚を学んだダンサーとして「日本人身体蘇生論」を論じようと決意した。

また、 VS 巨人。
廃墟や巨木を巨人に見立てて解体なり手入れもした。

意味不明かもしれないのだけれど、無意味ではない。

ここ最近。
それぞれの点と点が、繋がり始めている。
ちょっと、これはヤバい可能性が観えた。


去年春、鎌倉から島根まで歩んだ道中で強く学んだこと。

日本が抱える諸問題の一つ

「 空家廃墟化問題から発す過疎化問題 」

ダンサーであり二級建築士でもある身として鎌倉から島根までの767kmを歩きながら通りかかる街並はランドスケープデザインとしてインスピレーションを受けた。

ただ、それが単なるインスピを越えて危機感に代わった。

関西の山奥にあったゴーストタウンを歩き通った。

完全に廃墟となっている家から、廃墟になりかけている家まで。

晴れ渡っていた青空のもと、空風とはこのことかと思った。

ヒトが出入りしなくなった家は劣化する。
風を通さない空間は鈍っている。

日本は人口が減っている。
若い人間も減っている。
スマホ現代人は身体感覚が鈍っている。
そして
過疎化の意味するところは
自然が国土を取り戻しにかかっているということ。

島に住むローカルの人口が減っているんだ。
観光客増加は数の内に入らない。
島にヒトが減れば、そのぶんムラは減る。
ムラは元々、山々森なり自然だった。
ヒトの身体は自然に還る。
それはヒトが生み出したムラも同じ。

人口減少の道には、必然性が宿る。

廃村した空間は、緑となる。
当然な自然原理だと思う。

しかしヒトの手が入った時点で、もうすでに原生林ではないのだ。

歩いて横目でみたツタにおおわれた廃墟は、悲しげだった。

そう考えると過疎化は自然原理でありつつも「課題」であることにキづく。
放射能から除草剤まで人間は「ツチ」の自然秩序さえも狂わせた。

自然に還すにも一手間の責任が存在していた。


これから確実に少子高齢化を辿る現代日本の課題。

『 空き家廃墟化から発す過疎化問題 』

具体的に身体を動かし自然と向き合い掃除のできる肉体労働者が求められるていると感じる。

過疎化問題に対し、若い世代特有の実体的でない「シェア」なりの方法で蘇るムラもある。

ただし現実問題、過疎化を逃れない空間も存在していた。( 実際に歩いて初めて知った。)


「 〜全ての〜労働を〜舞踊の範囲に高めよ 」
-宮沢 賢治


男性ダンサーが、肉体労働をして美しい仕事ができないなんて、説得力がないと思った。



僕は現在、『 空舞師 』を目指しています。

空師×舞士 = 空舞士



それまで書いてきた内容と相対してそうで、全くしてないようにも思えますが。。。

すなわち、自然を相手に踊りはじめました。

自然とセッションするダンサー。

自然と向き合う具体的な労働の結果、自然を表現し踊る。

それが今日までの課題に対し、どのような貢献を生み出せるかは未知数です。

ただ、イマ ココでやれるコトにベストをツクすのみ。

自分なりのアンサーとして、ここ数年で世へ具体的に表現するよう修練して舞る。



one step one life
OBA



「 ハルトシュラ ジョ 」
used : 色鉛筆


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