2019年5月30日木曜日

〔 POP - 己の内から湧き上がる泡が弾けたサマ。〕


思うことは、自分のスタイルを如何にして人々と共有していくかという議。

尾崎 豊は、自身のスタイルを世に受け入れてもらうために苦心をすべきであってアンダーグラウンドに甘んじてはならないと語っていた。

この言葉を雑誌Penの尾崎特集で読んだ時。

ギクっとした。

自分が苦心しているのは自分のみではなかったか。

世に受け入れてもらう即ち極度に言えば名誉。

自分を世に認めてもらうこと。

それは僕にとって欲の一つでしかないと感じていた。

だからときにダンスバトルに挑むとき、結果を求めたら負けといつも自分に言い聞かせていた。

ジャッジに認めてもらう前に音楽とどれだけ真っ直ぐ向き合えるか。

グルーヴはすでに奪われていないか。

常に自分に問いかけては音楽に耳を澄ませた。

踊りの素晴らしいところは、音楽に頼れるという事実。

音楽に身を寄せれば身体は自ずと動きだす。

その前に思考が働き身体が意思で動き出した時は、踊っていても大体きもちよくない。

とはいえ、バトルでは自分のペースで踊り出すことはできない。

決められたカウント、秒数で踊る必要がある。

己のバイブス、グルーヴ、パッション、テンション(集中)、少しの規制をかせる余裕。

これらの要素が無意識的に展開しだすとき、身体はもう踊り出している。

ただ、なかなかバトルでこのタイミングが合うことは難しい。

ダンスフロアーにおけるダンスサークルでは「自由」だ。

もはや、サークルで踊っても見ててもいい。はたまたスピーカーの前で一人の世界に入っててもいい。

ただ、決められたときに己のポッシブルを最大限にもっていくことが時に求められる。

バトル、クラブショーケース、公演舞台、舞殿すべての舞台で求められる。

ダンスフロアーとステージの違い。

ただ、ふと我にかえると思うことがある。

いや、本質で問うならば双方ともに同等ではないのか。

どっちも同じことなのではないのか。

尽きるところ、我に振り返る事になる。

尽きるところ、自分と向き合うことになる。

なぜなら踊りは必ず、各自の身体で踊るから。

この身体が唯一の道具であること。

身体の感覚と向き合ったとき、意識が五感に集中する。

息をしていることを忘れていることにキヅく。

息に意識が戻る。

必ず止めどなく息を僕らはしている。

ただ、ほとんどが無意識的におこなわれている。

けど、意識が呼吸するとき身体に感覚が戻ってくる。

聴覚が働く、何故なら音楽が鳴っている。

音が鳴っている。

音は鳴っている。

耳を澄ませる。

聞こえてくるのは自分の耳を通して聞こえてくる音。

その音に意識を集中させる。

まず呼吸で踊ってみる。

呼吸を音楽のフィーリングと調和させてみる。

音楽の中できもちよく息をできるときは必ず身体よりも先に、心が踊る。

それが本来のダンスではないのだろうか。

カタの手前に、打ち込むぜ、己にPOP。

POPというのは「己の内から湧き上がる泡が弾けたサマ」を言うのではないだろうかと超勝手な巨大解釈を最近する。

事実、冬寒い日にPOPを打つと身体が温かくなることを、ポッパーは知っている。

自身の内側から湧き立たせる沸騰に泡が、水面という名の筋肉を超えた皮膚全体に辿り着いた時、僕らポッパーは弾く即ちPOPしているのではないだろうか。

音楽に息を合わせるとき、心が踊りだす。

心が湧き上がる。

魂が燃え上がる。

ソウルがファイアーする。

「the one...Music First.」

我が師、Jazzy J a.k.a. Soul Fireの提言。

先ず、音楽。

Jazzy の飛び火を受けてから数十年。

思うことは、本当にそうだなーという共感。

ストリートダンスに大切なのは先ず、音楽。

それでしかない。

その意味で言えば確かにストリートからステージと化す。

フロアーとステージの本質的な違いは、ストリートには存在しない。

今ココがオンステージ。

生きる今がオンステージ。

音楽が鳴っていれば、どこでも踊れる。

路上が舞台と化す。

この道が舞台と化す。

今歩んでいる道が舞台となる。

Step by walk to be Dancing.

道で踊る。

今を生き、歩む此の道で踊る。

ストリートダンサーに悲壮感はあり得ないはずだ。

だから今日も己に打ちこむポップス。

この泡を弾くことで湯気が大氣に還るように。

少しでもバイブスが上がるように。


one step one life
OBA

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