2020年3月28日土曜日

「 Dancing of Yeast. 」

振り返る2年前。

 「歩んで舞る。」

2018年4月28日、445kmを歩み舞った身体を持ち風呂場へ向かう途中。

もう、死んでもいいや。とホンキで思った。

隣人に話したところ、まだ早いと言われた。

ただ、彼は知らないのだ。僕が本当に歩んで舞ったことを。

そのときに真剣に思ったことがある。

人=人とはいえ、人それぞれ違う。

この身体による体験は本質的には共有し得ない。

なぜなら僕はあなたではなく、あなたは僕ではないから。

ただ、しかし表現の世界に生きる人間として。

共有空間を生むために、踊り身体表現をしている身として。

まだ早いという言葉は即ち、まだ表現しきれていないことだと自己反省をした。


表現という言葉は、一体どのような意味を持つのか。

何がしかを表し、この世に初めて、現われる、者。

表現者。

身体表現者。

生きるもの。

人だけではない。木々も菌類も生きている。

現代問われているのは、人と自然の共生である。

踊りは本質的に、音に合わせて身体を動かす行為だ。

木々は風に揺れている。

木々にとっての風は、僕らダンサーにとっての音楽ではないだろうか。

音に揺れる人間。

鳥声、風で揺れる葉々、雨、瀧、雷、森羅万象全ては音を持つ。

カネの鳴る音、割り箸を落とす音、生活圏の音には「人工」と「自然」の音が混合し聞こえてくる。

生活の音に合わせて動く姿そのものは、もはや踊り?

舞踊の如き労働。そう語ったのは宮沢賢治か。

今、この瞬間が、踊りになりえる。

one step one life

歩む此の一歩から舞は織りなされる。

表すべくは、生きる喜び。

基本、時代は8割苦痛。

2割の希望は、舞う姿にあるのだと思う。

心から、踊る姿に、悲壮感は有り得ない。



OBA




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