2016年12月22日木曜日

僕はストリートダンサー。

2016/12/22
これからの時代。 政治でAIを語る時代から、民衆がその課題を真っ向から向き合う時代になってきていると実感。 なぜなら、その当事者は政治家含む、大衆なんだ。 電車のれば、現代にすでに人工知能化が進んでいることを体感できる。 皆、スマホを片手にスマホの液晶画面に目を奪われ身体を失っている。 ここで、生きているという実感を失っている。 そのなかで、携帯番号を拒否し、スマホを待たず、ただただ、ひたすら歩むことに集中しだした人間の使命はなにか。 人間の尊厳はなにか。 それはシンプルに、人間の共通事項である、人それぞれには体がそれぞれに存在しているという事実。 私という単語は、私にしか使えないように。 私の体は、私の体でしかない。 他人の体は、自分の体として呼べない。 この地球・万象が産み出したシンプルな事実と共通事項にこそ、ブレイクスルーが存在すると思う AIとの共存が以後、これから必然的に進むと思う。 そのなかで、必然的に人間の尊厳が問われていく。 答えはシンプルだ。 体にしかない。 体そのものを機械化したら、その人はロボットというのだ。 その体そのものを表現媒体にしているダンサーという使命は、もはや舞台上で踊ることのみに専念する時代は終わったんだ。 路上に降りなければならない。 路上に降りて身体の素晴らしさをより多くの人々に伝えてかなければならない。 そういう意味で、この前の一本歯で歩んだ、あの時と空間は、ひとつの可能性が輝いていた。 歩むことを忘れた人間の身体は、消極性を表している。 しかし、歩むことを始めた身体は積極性を表している。 すなわち、踊りは積極性を意味することに通ずるのだ。 俺は、踊ることは歩むことと同等であることに、17時間以上の徒歩活動で見出したんだ。 俺は、この可能性に使命感を感じている。 ただただ、一本歯で歩むこと。 そして、その姿をみた老若男女の人々はなぜだか、こわばってた顔もふとほころぶのだ。 なぜか、おばあちゃんに手を合わせてもらえたり、おじちゃんに励まされたり、子供たちは笑ったりして、かつてのコミュニティーが生まれるんだ。 このコミュニティーこそが、この関わり合いこそが、人の美しさではなかったのか。 俺は、このことをなんとか、なんとか。。。 人々に伝えていきたい。 このことを使命とし、神秘なる舞台を地球上とし、霊という名の神の媒体者すなわち巫女となり、踊りというなの歩みも含め。

神秘なる舞台の上で、踊りをとおし霊となることに全ての命を使いきり、音を通し万象に身を託す。
これを我が人生とす。

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