美しい路に生きたい。
どれだけ醜く汚らわしい路であったとしても心は美しくありたい。
美しいというのは、一体なんの根拠をもって定義できるのかは各自人それぞれだし謎。
けれど、美しさというのは本来は普遍的であるのではないかという直感に目を背けることができない。
例えば、朝日から夕日、どこまでも広がる晴天や光り輝く緑の山々や心と共に解放される水平線などに対し汚らわしいと思うのならば、その心が汚らわしいというのは間違いないのでは と感じる。
美しいという言葉自体が死語になりつつあるのに対し、愛という言葉も現代では死語になりかけてはいないか。
愛という心情・情景を感じるのには難しい日々を過ごす中では、愛という言葉を受け取った時点で胡散臭く感じてしまうのも仕方がない。事実、私も愛という言葉を発すること自体、勇氣がいる。それは私自身が未だ弱いのか気にしすぎなのかはわからないけれど、事実人々の反応は賛否に分かれるのを感じる。
けれど、それでも、どれだけ美しさや愛が否定される時代であったとしても、各自が持ち合わせる美しさや愛は正義という普遍性へと繋がっていることを信じたい。
情報媒体では緊張感の漂う現代の中、実際の日本の実情を直視したとき、これ以上のない平和が目の前に広がっている。
情報の中での緊迫状態に対して、目の前の現実のギャップに違和感を覚えるのは私だけだろうか。
この情報内での緊張が、現実となったとき、間違いなく混乱となる。
その混乱となるとき平静さに導くタスキとなるのが、その人本来が持ち合わせる誇りと愛なのではないかと思う。
私が一番、心配しているのは平静さを失うことであり混乱となった暁、隣人愛を失うことだ。
ダンサーとして、このような発言は避けていたいけれど、これから表現者として生きていく上で、かつての激動を生きた藝術家がそうであったように、表現の裏側に存在する意志からなる『想い』を発すことは、これからの時代、重要になってくるのではないだろうかと考える。
この地球は、美しい。
この世の美しさを身体で表し現ることにより、ダンサーとしての使命を果たしたい。
これからの時代において、美しさと愛をもって、どこまでも諦めずに踊り即ち身体表現を創造していかなければならない。
その作品の一つとして、3月28日から4月24日までの28日間による鎌倉から出雲までの徒歩移動。
歩むこと、二足歩行、この身体運動は世界人類共通事項。
この『歩むの再生』そのものが、ダンサーとしての急務と考え実践に移した。
人間は一度決めた目標地点に一歩踏み出し、諦めず歩み続ければ必ず到着できる。
歩むの再生は、自身が持ち合わせる意志と氣力への信頼再生でもあると考える。
美しさと愛による平和への希望を失ってはいけない。
そのために、先ずは私は鎌倉から出雲まで歩んだ。
この歩みにより学んだ実体験を、ネクストステージで表現していくことが次たる目標。
一日一生、初期衝動をもって一歩一歩を大切に、心は不動で有れ。
我が路、美しさと愛をもって歩み続けて参る。
peace & one love
小畑 大左衛門
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