記憶に留まる意識的作用。
体験に留まる無意識的作用。
基本的に、朝起きては夜寝る生活を営んでいる僕らは
意識と無意識を行ったり来たりしている。
もちろん僕らは目覚めた意識と眠っている無意識(潜在意識)であっても呼吸をし続けている。
意識的な時間でも無意識的な時間でも、僕らは心臓が動いている。
意識と無意識の対局要素をつなげるのは、生命活動ならぬ「生きている」という事実。
対局的に存在する要素に対して、ポジとネガ/善と悪/快と不快のような感情的作用を無くした時。
+と-や北と南のような事実的対極作用を、俯瞰的な姿勢で認めることが出来る。
当り前のように意識と無意識に対しても、どちらが善で悪であるかなどの定義付けほどバカらしいことはないと思う。
目の前に起きている、朝と夜のように光がさすときもあれば深い闇に包まれるときもある。
朝日が上った時には朝日を眺め、夕日が落ちれば夜空に浮かぶ月を眺める。
どちらにしても言えることは、世に存在する対極的作用に対して僕ら人間は受けとめることしかできない。
内的、精神的な喜怒のような感情的対極活動は世における朝夜に対して非常に不定リズムな現象だと最近つよく感じる。
というのも、めちゃめちゃハッピーなときもあれば地獄のような怒りを味わうときもある。
けど、どちらに対しても言えるのは、結局その感情は自分が感じているだけであって外的な現象の問題では究極、無いということ。
その感情的対極作用に振り回される日々を送ると、目の前に起きている自然の対極作用からの学びが失われる。
ハイでもなくローでもない。
ミドルな世界を感情に託したい。
あくまで普通で居る。
目の前の現実は、どうしようもなくめまぐるしく対極要素を行ったり来たりしている。
人間における内的/精神的 対極要素を中間地点におき、あくまで普通に在り続けること。
それは世における対極要素を全面で受け入れる平静さを得ることに繋がっている。
僕は、最近つくづく「 いつなんどきも、普通で在れ。」ということから多くを学んでいる。
それでいながら軽く口角を上げて微笑のスタンスを持ち続ける。
それが、意外と難しい。
都内の電車やバビロンに包まれたとき、微笑は畜生な雰囲気になってしまうときもある。
けど、それでも心から平静さを持ち続けるためには一重に呼吸に集中することが一番効果的。
呼吸を静かに意識するとき、それまで多分な要素をしめていた意識的作用が少しづつ無意識的作用へと移行していく。
身体に対しては意識的となり、心すなわち内的感情ならびに知的行為に対しては無意識的となる。
まさに踊りをしているのと同じ状態。
身体に意識的になると自然に心は静まる。
そこから必然的に、身体からドラマが生まれ、すでにおきたドラマに内的作用が追いつく。
この身体先導式生活様式は、すなわち「 生きている今が映画 」となることを意味している。
この世における何十億の人々の人生というドラマすなわち映画が存在する。
一人一人にしか見えない世界がある。
人は必ず体感をもつ身体が存在している。
すなわち外的要素をつなぐ、何かしらの体感認識が存在している。
僕らは身体の体感により外的要素を認識するんだ。
一人ずつ、その人しかもちえない体感認識により一人一人それぞれのドラマ/映画。
その究極的視聴者は、この身体をもつ本人である「我」に他ならない。
この我たる視聴者は、今目の前におきている現象/現実にたいしてワクワクしているのか。
これから先の展開にワクワクしているのか。
それとも今日までのドラマがあまりにもツマらなくて退屈になっているのか。
僕ら人間は自分の人生における圧倒的視聴者でありながら主役演者でもある。
客観的な要素を持ちつつも、当事者的に「行動」が起こせる事実。
この事実は、始めに書いた意識的行為と無意識的行為に繋がる。
視聴者と演者を同一に兼ねている僕ら人間は、自身の人生に対してドラマすなわち映画を生きているという認識。
一人一人ずつもつ、一つ一つの人生。
人生はドラマ/映画。
人間の人生は、視聴者と主役演者が同一。
視聴者と主役演者/意識と無意識
今を生きる、この瞬間が既に映画。
その認識が、人間の内的対極要素を調和に向かわせる。
その調和が生まれたとき、目の前に広がる現実たる世界は色彩をおびて展開を魅せてくれる。
その展開を美しく生きるかどうかは、我たる自分に託されている。
視聴者/主演役者を超えたディレクター、僕は自分の人生ドラマにおける監督となる。
その覚悟から、今を生きるドラマをいかにして美しくワクワクさせていくか。
その責任がようやく、自分に戻ってくる。
誰でもない、自分の人生を歩む我に対して。
ようやく責任が還ってくる。
この責任は、つきるところ人生の使命における忠心に他ならない。
この人生における使命を全うする責任を得たときに、僕ら人間は自身の人生における監督となる資格を得るようなきがする。
他ならない自分自身の監督として、受け入れるところは受け入れ、出来る限りの行動を通して使命を全うしていきたく考える。
そんな、今日この頃でした。
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