人はナゼそれでも踊るのか。
その言葉は、『人はナゼそれでも生きるのか。』と同等と考えている。
踊るという行為は、この身体で音楽なりに合わせて『動く』ことを意味している。
音楽を通して心が踊るとき、自然に身体が『揺れる』。
この揺れが踊りの本質の一つと考える。
日常だれしも苦しみや不安を抱え生きている。
その苦しみや不安に完全に包囲されると無気力になる。
無気力になると人は動くことをやめる。
無気力の状態で踊ることは本来不可能に近い。
ただ、無気力な状態で自分の本当に好きな音楽を聞くと僕は安らぐ。
その安らぎに身を任せたときに、自然と呼吸は音楽と共にある。
呼吸が音楽と同調したときに、また自然と身体は揺れ始める。
その微細な揺れは、無気力状態であった身体に気力を取り戻す。
気が晴れる。
踊ると気が晴れます。
調子抜群のときに生きていることを鼓舞する。
その逆もある。
気が晴れない無気力状態で二進も三進もできないときに、踊るダンスもある。
それは難しいことだけれど不可能ではないのかもしれない。
自分が安らぐ音楽と環境に身をおくことによって、静かに身体は揺れ始めているかも。
その微細な揺れこそ、気力の芽生えかもしれない。
踊りは生きる肯定に他ならない。
そう信じてる。
だからこそ踊りが生きている肯定を意味しているのではなく
今日も生きるため、僕らダンサーは踊っているのだろうと考える。
生きるために、踊っている。
踊るために生きている以上に、生きるために踊りつづける。
人はナゼそれでも踊るのか。
人はナゼそれでも生きるのか。
踊りと生きるは同等の意味と考える。
ただ、生きる基礎の上に踊りは成り立っていることにきづく。
OBA
明日もPOP基礎練会宜しくお願い致します。
8月、9月ともに毎週水曜日21時より登戸cloud9studioにて間違いなく実施しております。
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