2017年1月1日日曜日

「 雲の上の飛行機雲が太陽の陽にあたる - 猛烈の勢いで俺は、それを見ながら天空から地上へとおちてゆく - 」


ふと、きづくと、このよではない、なにかを考えている。
美しい、ピアノの旋律を聴きいり、この世とあの世の境目がわからなくなる。

この地球というのは一体なんだ。

この体というのは一体なんだ。

俺というのは一体。。

この手が打ち込む文字から、人間が持ち合わせる歴史についても、全てが虚空の中へと消え、

生きている事自体、神秘という言葉でごまかして、もっと向こうに羅列する見てはいけない影の向こうのように。

凝視をしてはならない、人影を、真剣に見てしまって、なにかがわかりかけたとき、ものすごい恐怖が襲いかかるように。

子供のころ、感じていた、死への恐怖は、純粋でありながら真理に近く、その上、大人になると、その真理から目を背けたくなり、生きることを、日常化する。

日常化することにより先に失われるのは、すべてを「不思議」と感じる心であり、不思議と物事を感じなくなることは天地さかさまに物事を考えられなくなることなんだな。

天地さかさま・生きることに不思議さをなくさずに、夕日を垣間みたときに。

人間というのは一体。

地球というのは一体。

我らというのは一体、なんだ。

と思うんだ。

どの時代でも、この我という魂が存在して、視覚し、聴覚し、判断し、思考し、今を生きているのだろうけど。

そもそも、この我という人間の、自覚というのは、一体なんなんだ。

この当然という日常の中に、没我していければ、なにも知らずとして死に絶えることができるのかもしれない。

そして、きづいたら来世へと生まれ変わるのだと思う。

けれど、あの世というのは、、、もしかしたら、なんか、言葉を超えたところで

「 なーーーーんだ!そういうことか・・そういうことだったんだ!!」

というような、死の先には、もしかしたら旧友と再会するような感覚で、すべてを納得するときがあるような。

想像をして - - -
 雲をも超える高い天空から、もの凄い勢いで落ちている。その先に見えるのは雲の上に浮かぶ圧倒的に美しい太陽で、「 ごーーーーーっ 」と耳は聴覚を失いながらも、確かに心の中では美しい旋律が鳴っている。


死んだ先に、美しいピアノの旋律のような静かな世界が、待っているような、その上、上記のような激しい世界が、激しくロマンチックな世界が待っているようなきがしてならないのだ。

そしたら、僕のできることは、世に、この静かでありながら烈(はげ)しく美しい浪漫の旋律を地上で悩める人々の心へと届けたい。

ふと、一人になり我と向き合うとき、ふと、空を見上げ、美しい雲や太陽を垣間見たとき、家族と、これ以上のない幸せを過ごす子供や親達の心、なんでもない日常の中に、ふと、流れ込む、優しい感謝と感動を、この静かでありながら烈しく美しい浪漫の旋律は流れ着くのだ。

その流れ着いたとき、人々の中で、おのずと沸き起こる感情は、感謝であり、感謝の先にあるのは懇親な姿勢であるのだと思う。

無条件な笑顔は、人々に笑顔を生み、その笑顔を産み出した本人でさえ、その笑顔にまた、笑顔となるのだ。

そのフリーエネルギー的循環を、理想郷に終わらせないためにも、これら空想を、実現とし、この体をもって、夢物語を表出し、展開させていく必要があるのだ。

俺の求めている、立派な無数の順列の向こうには、触れてはならない影が存在していることを深く認めながら、

それでいながら

それでも

一度、たしかに聴こえた立派な無数の順列による倍音の真理と神秘は消えていかない。

その倍音の真理と神秘のむこうに、なにかが存在する。

それは、「なにか」としか表現しえない世界。

その「なにか」にこそ、なにかがある。

必ず、死ぬ。

俺ら人間は、必ず、死ぬ。

その死ぬ上で、奇跡たる今この瞬間瞬間を、不思議に思うたとき。


なにかの扉が開け、見えそうで見えない、言葉にできそうで、できない、なにかが確かにチラリと我に目を向ける。






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