2017年2月15日水曜日

徒らに歩く。

我の身、手前で信じず、何を信ずるのか。

歩む。

ただただ、徒らに歩む。

歩む時間を「移動時間」として捉えるのか、「徒らな時間」として捉えるのか。

ただの移動時間として捉えた場合、電車や車のほうが早いし効率が良く体力も使わない。

この時代に、徒歩移動をするという姿勢は、まさに「徒ら(いたずら)」でしかない。

人に無意味と思われようが、アホだとかバカだとか思われようが体外的な要素には全て頭を下げる。

家から田町まで徒歩移動をすると片道5時間半。往復で約11時間ほどになる。

田町での稽古は約4時間。

家を朝出発して、昼過ぎから夕方まで稽古、夜が深まる頃に家へと着く。

稽古時間よりも、移動時間のほうが長い。

この移動時間たる徒歩の時こそに、稽古以上の学びや氣づきや閃きがある。

稽古は、「整理作業」に近い。場所に留まり、まとめ作業に集中する意味合いで理にかない、稽古が弾む。

僕の尊敬するベートーベンや羽生さんも、歩く。

ベートーベンは歩きながら作曲をし、羽生さんは試合前に必ず歩く。

歩くことは当然な事実として、移動手段として自らの足を使う。

自らの身体を用いての移動手段。

移動するために切符も買わなくていいし、運転もしなくていい。

必要なのは、自らの足の運動と氣力だけ。

道具は、我の身。

この姿勢は、踊りと通ずる。

歩める身体抜きにして、何が踊りだ・・・と感じ始めてから約半年以上。

とにかく、徒らに歩き続けた。

歩くことによって、自動的に自分と向き合うことになる。

ダンサーとして、先ず歩めなければ。

同業の人々に笑われることも多々あった中、真剣にただ真摯に我の歩みに集中した。

真剣に歩き初めて弱半年ほどしか経たないけれど、結果として言い切れることがある。

歩むことは即、踊ることだ。

道具を必要としない全体運動として、歩むことも踊ることも同じだ。

歩む足の奏でるリズムに心が踊りだす。

外的要素の音楽に、体が反応する以前に。

自らの生み出す一定テンポの足音というリズムに、自らの魂が喜びを感じる。

歩き始めてから、すぐにきづくことがある。

歩くリズムがバラバラなんだ。全然、リズムキープができない。

徒歩移動をしなくなって、どれだけ歩くことを忘れていたかを自覚する。

リズムキープができないということは、すなわち集中できていないということに尽きる。

歩く足音が一定拍子になったとき、歩くことが本来の意味でオートマティックになる。

歩くことが、「普通」になる。

エクササイズでしているのでもなく、無理しているのではない身体行動となる。

歩くことが、自然なことになる。

一本歯(一本下駄)で歩いていると、足元の不安定さから、一歩一歩に緊張感が走る。

一歩一歩に意識を向けなければならない。

その一歩一歩の積み重ねを5時間ほどしているときづく。

僕が一本歯で歩む理由は、一歩一歩たる歩みを刹那として生きていきたいからだと。

刹那とは瞬間よりも短いことを指すけれど、その実感は日常ではそうそう味わえない。

けれど、一本歯で歩むことにより、それまで西洋履では体感しえなかった緊張感と共に集中力が増す。

妥当に歩むことなどしようものなら、足首を捻る。

妥当に歩むことなど許されない歩みを一歩一歩、かみしめながら歩む。

その緊張感から始め、時が経つにつれ、一本歯という履物が「身体化」していく。

すなわち、体に馴染む。

そうすると基本、なにがあっても転ぶということはない。

転ぶときは、必ず、不注意のときだ。

意識のどこかに注意という名の緊張感は保ちつつ、道具を体になじませ、肩から力が抜けてくる。

そうすると自然な姿勢となり、腰も楽になり、足も楽になる。

歩くことって、疲れることではないことに、きづく。

これは何も苦行物語ではなく、誰しも共通する「歩く」話である上、何も特別なことではない。

事実、かつての人々は皆、歩んで移動していた。

かつては当然だけれど、電車も車もなかった。

そんな当然の事実を、便利な時代な故に、忘れてしまっているだけだった。

ダンサーとしての修練として始めた徒歩移動も、今では修練ではなく習慣となった。

ダンサーとしてだけでなく、一人間として、歩むことから多くのこを知る。

刹那という言葉の意味も、集中という言葉の意味も、忍耐という意味も、自問自答の意味も、共同体という意味も、全ての概念や言葉たるや意味なきものなどない。

意味が問われる人間が産み出した概念よりも先にあるものを感じる。

それは万象という事実で、太陽が上がり下がる。月が現れては消える。風が吹いて、雨がふる。

そんな自然の現象が、人間にとてもつもなく影響を与えているのだという当然の事実を全身で体感する。

入れ物に入って、移動していると、移動している体感性は薄れる。

歩きながら移動することは、肩で風をきること。

風景の中に身体全体をもって、同調する行為。

その結果、我の身は全万象に依存していることに改めて、きづかされる。

きづきというのは、編み出し生み出されるものではなく、授かるものだと知る。

情報というのは本来、スマホの液晶にあるのではなく、目の前の現実にあるものだと知る。

信じれるのは、液晶ではなく、目の前の風景にこそあることを知る。

信じれるのは、今、ここ、この瞬間。生きている今にこそある。

目に見えている身の周りが、信じれるようになる。

この身が目指す先は、歩む先にある。

歩む先にある目的地点は、歩むことを諦めず歩み続ければ必ず、到達できる。

諦めないで、歩み続ける。

そこには健全な身体と、氣力。

そして、何より、無理をしない。

歩み疲れたら、休めばいいのだ。

休憩をして、またヨシ!と思ったら歩み始める。

この繰り返しを、ただただ、繰り返し続けると、きづく。

歩みつづけるには、「普通」であることが一番なのだって。

なにもきあい入れすぎず、姿勢は正中線の上、呼吸を大切に。

上でもなく下でもない。

中に意識を集め、ただただ歩む。

集中。

そして、きづいたら楽しくなってきている。

歩くこと自体が、楽しい。

今、この一歩一歩が楽しいし氣もちが良い。

そして改めて、きづく。

徒歩。

徒らに歩む。

徒らな心。

完全に徒らな少年へと回帰していく。

徒ら精神に、悲観的要素などあるはずがない。

「楽しくてナンボの世界。」

歩くことは、そもそも楽しいことだったのだ。

楽しむことこそが、徒らの本質であるならば

徒らに歩む。

「 徒歩 」

先人は、よう言ったものだと感心する。


one love

小畑 大左衛門
















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