2018年9月17日月曜日

カミナリ - 序 -


わたくしという現象は、仮定された有機交流電燈の一つの青い照明です。
(あらゆる透明な幽霊の複合体。)

(ひかりはたもち その電燈は失われ)

- 宮沢賢治 春と修羅 序

この詩を改め読みなおした時、身震いする想いだった。
人間は当然のように有機質な身体と心(三位一体では次ぐに霊)で成り立っている。
現代社会におけるAI志向で問われる人間の尊厳は人間の身体にあるとアンサーできる。
僕らの身体は動物です。と言い切ることができる。ダーウィン的自然科学が世に一般とされているのならナオの事。
僕らヒトはもともとサルの進化形らしいのだ。

ともあれ、この身体こそ有機質であることは事実だ。

有機交流。
ふむ、、人間は電流というか周波数レベルの波の結果でしかないよなーと鎌倉から島根と鎌倉から滋賀までの道中を歩んでいて、なぜか、ずっとそう思ってしまうことが多々ありました。

人間という身体から発する熱が事実存在するように、人間は少なからずとも熱を発生しているエネルギー体であることは間違いない。今年の夏は沢山汗をかいた。
エネルギーというのは唯物論的には本来ナシな感じなのではないだろうかと今ふと思った。
なぜなら、目に見えない現象だから。
物質主義業界上ではエネルギーも一つの質量になりえなければ存在価値に値しない。
現代では結果、目に見えないものも物質化し商売している。
電波を買っている事実がそうだ。

基礎に還って、人間は有機質な熱を発するエネルギー体である。
エネルギーは交流を意味するとも考える。
なぜならエネルギー交流こそが、コミュニケーション。
人間の欲求要素は情報欲が最も強いと、どこかで聞いた。

交流しえるエネルギーを持ち合わせた有機質な物質 - 身体。

電燈は何を意味しているのだろう。

交流に次ぐ電燈のあとに一つの青い照明ですと続く背景には、電燈は全体として捉えることを必要とする。

一つの交流する全体 = 身体。
身体に灯る青い照明 = ソウル。

その青い照明がソウル = 人魂と感じてしまうのは勝手がすぎるかもしれない。
(しかし事実、日本のオバケ屋敷の人魂は基本青白だ。)

青い照明の次ぐ (光はたもち、電燈は失われ)

ソウルはたもち、身体は失われ。

死は終りを意味するのではない、始まりを意味する。

そして、始まりは終りを意味する。


光はたもちソウルは繋がれていく。



春と修羅 序で宮沢賢治が、そう語っているように僕は今日2018年9月17日に強く心で感じた。

one step one life 

OBA

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