振り返る2年前。
「歩んで舞る。」
2018年4月28日、445kmを歩み舞った身体を持ち風呂場へ向かう途中。
もう、死んでもいいや。とホンキで思った。
隣人に話したところ、まだ早いと言われた。
ただ、彼は知らないのだ。僕が本当に歩んで舞ったことを。
そのときに真剣に思ったことがある。
人=人とはいえ、人それぞれ違う。
この身体による体験は本質的には共有し得ない。
なぜなら僕はあなたではなく、あなたは僕ではないから。
ただ、しかし表現の世界に生きる人間として。
共有空間を生むために、踊り身体表現をしている身として。
まだ早いという言葉は即ち、まだ表現しきれていないことだと自己反省をした。
表現という言葉は、一体どのような意味を持つのか。
何がしかを表し、この世に初めて、現われる、者。
表現者。
身体表現者。
生きるもの。
人だけではない。木々も菌類も生きている。
現代問われているのは、人と自然の共生である。
踊りは本質的に、音に合わせて身体を動かす行為だ。
木々は風に揺れている。
木々にとっての風は、僕らダンサーにとっての音楽ではないだろうか。
音に揺れる人間。
鳥声、風で揺れる葉々、雨、瀧、雷、森羅万象全ては音を持つ。
カネの鳴る音、割り箸を落とす音、生活圏の音には「人工」と「自然」の音が混合し聞こえてくる。
生活の音に合わせて動く姿そのものは、もはや踊り?
舞踊の如き労働。そう語ったのは宮沢賢治か。
今、この瞬間が、踊りになりえる。
one step one life
歩む此の一歩から舞は織りなされる。
表すべくは、生きる喜び。
基本、時代は8割苦痛。
2割の希望は、舞う姿にあるのだと思う。
心から、踊る姿に、悲壮感は有り得ない。
OBA
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